Apr 17, 2010
アンチエイジングとかわいらしさを
アンチエイジングによる処理が、最近注目を集めているのです。可能な限り仕事をしていくしか美しさを手に入れることができなくなります。可愛さを追求している人もいるのです。自分なりの方法でいいのでしっかりと取り組むことにしていきましょう。アンチエイジングは、幸せをつかむ人がたくさん登場しているのです。フォトフェイシャルは、光を当てることで、ニキビやシミや赤などさまざまな問題を改善する治療法です。従来からあるレーザー治療は、症状に合わせて機械を変えて、問題のある部分をピンポイントで治療しますが、フォトフェイシャルは、肌の内側から提案して活性化させ、顔全体を治療しています。
■“つり上げ”で高校生に軍配!?
東日本大震災からの復興を願う産経新聞主催の支援活動「未来塾」の第1回2日目が7日、津波で壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町で開かれた。講師の元大相撲力士でスポーツキャスター、舞の海秀平さん(43)は、避難所やがれきを清掃中の漁港などを訪問し、「生きていることを感じ、亡くなった人の分まで頑張ってください」と激励した。
舞の海さんはまず約130人が避難している歌津中学校体育館を訪問。「大変ですね」などと語りかけ、サイン色紙をプレゼントした。千葉すみ子さん(85)は「すべて津波に流されて何もなくなってしまった。この色紙は飾るもの復活第1号。ラップを張って宝物にします」。津波で亡くなった父親が相撲好きで、舞の海さんのファンだったという石垣由紀子さん(39)が「仏壇に供えたいので」と色紙を差し出すと、舞の海さんは故人の名をサインに書き込んだ。
「相撲を取らせて」と申し出たのは志津川高校3年で剣道部長の佐藤裕君(17)。体重は100キロ近くあるという佐藤君が、苦笑しながら受けて立った舞の海さんをつり上げると、避難者から拍手が湧き上がった。「相撲やったほうがいいんじゃないの」と話しかけた舞の海さんに、佐藤君は「剣道のほうが好きなので。きょうはいい思い出になりました」と満面の笑みで応えた。
一帯は震災発生当時、道路が寸断して孤立、厳しい避難生活を強いられた。先月には天皇・皇后両陛下のご訪問も受け、伊里前地区の互助組織「伊里前契約講」の阿部洋副会長(53)は「仮設住宅の建設が始まり、希望が見えてきた。めったにお会いできない方々に訪問していただき、表情が明るくなってきた」と盛り上がる体育館に目を細めた。
舞の海さんは同町内で約190人が避難している施設「平成の森」に移動。避難所の畠山扶美夫事務局長(61)は「ここは有名人の訪問もなく、娯楽もないので、舞の海さんの訪問を心待ちにしていた」と大歓迎。漁師ら約60人ががれきに埋もれた館浜漁港の清掃中と知った舞の海さんは漁港を訪れ、ねぎらった。ウニなどを採るボートを操っていたという千葉和子さん(65)は「海の恩恵で生きてきたから、きれいにしてまた海と生きる」と話した。
2日間の日程を終えた舞の海さんは、「同じ時期に幕内に上がった6人のうちすでに3人が亡くなった。自分は生かせてもらっているという思いは常にある。被災した方々も大変でしょうが、ちょっとした楽しいことを見つけ、生きがいを感じてほしい」と語った。
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■歳月を超え伝えられた強さ
群馬県高崎市には、7世紀後半から8世紀前半にかけて建立された古代石碑が3つ残っている。じつは平安期までの石碑は全国で約20例しか現存していない。そのうちの3つがあるのだから、かなりの密集ぶりだ。
年代順に並べると山上(やまのうえ)碑、多胡碑(たごひ)、金井沢碑。このうち、最も有名なのが多胡碑だ。碑文には和銅4(711)年3月9日という日付が書き込まれている。
碑は、朝廷の命令で上野国(こうずけのくに)の片岡、緑野(みどの)、甘良(から)の三郡から三百戸を割いて新たに多胡郡をつくったことを記念して立てられたらしい。碑文には建郡の事実関係が淡々と記されている。冬には海外旅行変圧器を知りたい方はただし、一見しただけで特別な碑だとわかる。
そのかたちのせいだ。方形を組み合わせた多胡碑の造形は、かなり洗練されている。1300年前とは思えない、というと失礼だけど。以前に当欄で紹介した那須国造碑(700年)も石を組み合わせていたが、形状の優美さはこちらが上回る。
「じつは、微妙な台形に仕上げてあるんですね。奥行きや安定感が出るように。石をはめ合わせるための凹凸加工もしてあって、とても丁寧な造りです」。碑の近くにある多胡碑記念館を訪れると、学芸員の大工原(だいくはら)美智子さん(48)が解説してくれた。
石碑の制作は当時、大変な事業だった。古碑が密集しているというのは、上野国のこの周辺が東国運営において相当なポジションを占めていたことを想像させる。
大工原さんによると、記念碑建立は、朝鮮半島や中国からもたらされた渡来文化で、屋根を載せるのは半島式。その後、日本史のなかではぷっつり途絶える。記念碑づくりが日本に定着するのは、江戸時代からだという。建立の理由については「律令制のくさびのような感じを受けますね」。関東平野の北辺で、中央政権の威を示すための道具になったのだろうか。
多胡碑を有名にした理由の一つはその造形美だろうが、刻まれた人物の知名度の高さも注目点の一つに数えられる。天武天皇の息子である「穂積親王」のほか、「石上(いそのかみ)尊」とあるのは石上麻呂、「藤原尊」は藤原不比等のこと。そして、「羊」だ。
碑文のなかに「給羊」という言葉が出てくる。これがいろいろな物語を生んだ。このあたりの豪族に羊太夫(ようだゆう)という伝説上の人物がいる。馬に乗って朝廷に日参していたと伝わる。群馬から奈良へ通勤するなんて新幹線でも嫌だけど、それほど忠勤だったらしい。「給羊」というのは、その羊に「給(たま)いた」、つまり郡を「与えた」という解釈がある。事実関係はよくわからないのだけれど、中央と東国を結びつけるエピソードとして語り継がれてきたのは間違いない。
オールスター総登場という感じのこの碑は、のちに書道のお手本になった。那須国造碑より造形はすばらしいといったが、文字については、那須の方が上手に見える。書道家にとっては「味がある」ということになるらしい。
江戸時代には拓本を取りすぎて碑がすり切れ、「拓本禁止令」まで出たそうだ。模造品も十数種が出回り、「木目が分かるものもありますよ」と大工原さんは笑う。石なのに木目って…。そんな模造の拓本でも、オリジナルと変わらない値段で取引されたらしい。
最近レーザー光線でスキャンして分かったことだが、「羊」や「郡」の字は、消えかけていたところを、後世に元の字をなぞって彫られていることが分かった。「やっぱり、多胡碑といえば羊。一番人気のある字ですからね」
多胡碑を取材に訪れたのは東日本大震災の前だった。3月11日には、高崎市でも震度5強を記録したが、3つの碑は崩れることもなく無事だった。←デジタルガジェットの口コミ長い歳月を超えて伝えられてきたものの「強さ」を示しているようにも思える。(篠原知存)
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