Dec 15, 2010

てっとり早いアンチエイジング

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【プロ野球熱球皆伝】

 プロ野球史上38人目の2000安打を達成した巨人の小笠原道大内野手(37)。11日には、名球会から会員の証である濃紺のブレザーがおくられ、笑顔で袖を通した。ごく普通の野球選手だった小笠原が、球界を代表する選手にまで成長した裏側には何があったのか。努力を続けた野球人生を、関係者に振り返ってもらった。(小川寛太)

     ◇

 ■地元でも知られない存在

 小笠原の伝説は、社会人時代から始まった。千葉・暁星国際高から、NTT関東(現NTT東日本)に進んだ。チームの先輩で同社野球部のコーチも務めていた関口勝己さんは、当時の小笠原をこう証言する。

 「小笠原のことは千葉県内でもほとんど知られていなかった。うちも最後の最後で取った感じだった」

 高校時代は本塁打ゼロだった。それでも、チーム側には高校通算で20〜30本打っていると伝えられていたという。あの手この手で、なんとか野球を続ける道を見つけていた。

 注目された存在ではなかったが、チームに加わると、同僚らを驚愕させることがあった。基礎体力を測定するためにベンチプレスを行ってみると、いきなり95キロを上げてみせた。当時はウエートトレーニングが日常的に行われておらず、大卒選手でも上げられない重さ。すぐさま評判になった。「『すごいな』という話で持ちきりだった。プロ入り直前には130キロくらいまで上げられるようになっていた」と関口さんは振り返る。

 当然、プロにいくような選手になるとは思われていなかった。関口さんは、コーチ時代の教え子と比較してこう話す。

 「社会人時代でもれば、去年ロッテに入った清田の方がいいプレーヤーだった。ボールも飛ばせるし、足も速くて肩もいい。社会人の小笠原を知っている人なんてほとんどいなかった」

 ■鍛錬された打撃

 それでも、本人は社会人2、3年目からプロ野球を意識していたという。常に「僕はプロにいきます」と話していたという小笠原。それを裏付けるように、打撃の鍛錬を繰り返してきた。居残り打撃は当たり前。大会前になれば、酒を飲んで酔っぱらって帰ってきても、素振りやティーバッティングを欠かさずやってきた。

 5年間社会人を経験して、1997年にドラフト3位で日本ハムに入団。「入団発表のときは落ち着いていて、意志の強そうな子だなと思った。黙々と口数は少ないけど、打撃練習でも目的意識がしっかりできていた」と当時日本ハムを指揮していた上田利治元監督は語る。当時の加藤英司打撃コーチから打撃指導をうけたことで、金属バットから木製バットへの変化にも対応。苦手だったインコースのボールも、右ひじの使い方を習うことで克服し、もともと得意だった左中間方向への打球が、さらに伸びるようになった。

 「中距離打者で3割まではくると思っていた」と上田元監督。それでも、「ここまでパワフルな打者になるとは思わなかった。パワーは彼の努力のたまもの。(2軍施設のある)鎌ケ谷にいたころも、一番遅くまで残ってウエートトレをやっていた」と評価する。「特に可能性を感じた」(上田元監督)という3年目に、「バントをしない2番打者」としてレギュラーに抜擢(ばってき)。「打順が早く回ってくるので2番にした。将来は3番を打てる打者だと思っていたので、バントなんて細かいことをさせず、クリーンアップの気持ちで打つようにさせていた。バントをしなくても打撃技術でチャンスを拡大できるかもしれないし、足もあったのでダブルプレーも少ないと思った」と上田元監督は懐かしげに話す。

 ■「人間やればできる」

 プロ入り後は、どこでも守れることから「コンビニルーキー」とまでいわれた小笠原。社会人時代は、主に捕手を務めていた。ただ、打撃と同じように「感性でリードするタイプ」(関口さん)。いいときと悪いときの差がはっきり出ていた。二塁手でもプレー経験があったが、決して守備のうまいプレーヤーではなかったという。

 そんな小笠原を一塁手に抜擢した上田元監督は「スカウトから捕手と内野手ができると聞いていた。捕手は覚えることが多すぎる。早く打撃を生かすためには一塁か外野だった」という。ちょうど、落合(現中日監督)の引退とも重なったため、空席になった一塁手のポジションを勝ち取り、のちに5度もゴールデングラブ賞を獲得する選手にまで成長した。

 2000安打を達成するまで成長した要因を、小笠原を知る人は誰もが「努力」と表現する。プロ入りしたことによる満足感で、練習量が減る選手も多い中で、小笠原は違った。今でも、誰よりも遅くまで残って練習を続け、トレーナーによる体のケアも欠かさない。関口さんは「小笠原よりセンスのいい選手はいっぱいいた。人間やればできるってことです」と話す。「練習が彼を作り出した。練習はうそをつかない。これからさらに進化するための前哨戦だと思って殻を突き破ってほしいね」と上田元監督。さらなる高みを目指して、小笠原が歩みを止めることはない。

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