Jul 23, 2009

サッカーユニフォームの派手なされて

私が子供の頃、海外のサッカーの試合がTVで気軽に見ることもなく、唯の確かTVで放送されるのは、正月の高校サッカーだった。各学校なんといってもサッカーのユニフォームが派手で着てみたいとさえ思っていた。後に雑誌で知っているが、海外の有名なチームのようなものだったのサッカーのユニフォームを見て、また胸高鳴っている。
スポーツクラブのほとんどの施設は会員制で、通おしようとすると経費もかかる。運動自体はクラブに行かなくても外ジョギングすると十分な運動になるので、わざわざお金を出して運動しなくても良いものとする意見もある。しかし、運動を習慣化するには、どの程度の運動をすべきだと思う動機が必要である。元の運動をする意識が低い人は、自宅よりジムで運動するのがお金を出しているの刺激が運動しやすいのではないか。
 県は15日、今年度産のコメの放射性物質の検査を始めた。この日は潮来市内の6地点の農家から玄米を採取し、ひたちなか市の県環境放射線監視センターで分析。県産地振興課は16日に結果を公表する予定。
 一方、つくば市は同日、市が独自に行ったコメの事前調査で、同市下岩崎で11日に採取したモミ米からは、放射性ヨウ素、セシウムともに検出されなかったと発表した。坂東市でも11日に市内11カ所のモミ米と1カ所の玄米を調査。放射性物質はいずれも不検出だったという。両市は県の予備調査の対象地区外で、生産者からの要望を受けて実施した。8月下旬〜9月上旬に県が行う本調査の結果を待って市場に出荷される。

8月16日朝刊

【関連記事】
放射性物質:菅首相、除染の専門家呼び2時間議論
放射性物質:内部被ばく調査 南相馬問題なし
放射性物質:福島キノコ資材利用自粛を要請 林野庁
放射性物質:学校プール排水できず 福島県内600カ所
放射性物質:ナメコからセシウム検出 福島・相馬の露地物


 ◇「住民にメリットない施設」
 ネモフィラの花でブルーに染められた「みはらしの丘」で、全国的にも知られる国営ひたち海浜公園(ひたちなか市)は今年、20周年を迎えた。今もジニアやヒマワリが色鮮やかに咲き誇り、水遊びをする子供たちの声が響く公園には、戦前は旧日本軍の飛行場、戦後は米軍の水戸対地射爆撃場として供用された忘れがたい過去があった。市民の憩いの場に風化されず残る「戦争の記憶」をたどる。【山崎明子】
 園内のレストハウスに今春、地域の歴史を展示する「歴史ギャラリー」が開設された。さほど広くはないスペースに、米空軍の演習用模擬弾や、飛行機の爆音に耳をふさぐ人々の写真パネルなどが展示されている。東京ディズニーランドの約5倍に及ぶ広大な敷地に、10年度は約146万人が訪れた「花いっぱいの遊園地」の華やかさとは、雰囲気がやや異なる。
 公園敷地は江戸時代、競馬神事が奉納され、塩田もあった庶民の生活の場だった。だが明治後期には旧陸軍の射撃演習場、昭和期に入ってからは訓練飛行場となり、戦後は占領軍に接収され在日米軍の対地射爆撃場として使われた。住民による返還運動もあり1973年に返還され、91年に公園がオープンした。展示品はこうした歩みを伝えている。
 ギャラリー開設初日の3月12日。射爆撃場の元通訳、関根直正さん(83)=水戸市千波町=は講師として記念講演会に出席するはずだった。前日の東日本大震災でイベントは中止。7月になってギャラリーのパンフレットで米空軍のコントロールタワーなどの写真を見た関根さんは、懐かしそうにほほえんだ。
 「戦争中、英語は『敵性語』で、私も大嫌いだった。でも戦後は、しゃべれないと仕方がないと思ったんだろうな」。終戦当時17歳で、工業専門学校に通っていた関根さんは、英語を身につけたい一心で、夏休みなどに米兵宿舎でキッチンヘルパーのアルバイトをした。卒業した48年から72年まで、通訳として射爆撃場で働いた。
 52年、日米安全保障条約の発効により射爆撃場は正式に米空軍の演習場となった。米軍横田基地(東京都)などを離陸した飛行機が飛来し、爆弾投下や射撃練習を重ねる。勤務兵は多い時で60人、50年に勃発した朝鮮戦争中は1人だけの時も。コントロールタワーで観測した爆弾の弾着位置をパイロットに伝える任務を関根さんが担ったこともあった。
 「米兵とは一緒に街に繰り出すこともあったが、友達になったのは何百人のうち10人ぐらい。日米どちらかに肩入れすることはなかった」。関根さんは複雑な心境を吐露する。
 場内で拾った銃弾の薬きょうを売る人や、ひそかに耕作をする人もいたが、周囲の住民と米兵がかかわることはほとんどなかった。
 一方で接収後、爆弾誤投下や自動車事故など米軍が絡む事故が180件起きた。57年には、母子が乗った自転車を低空飛行の米軍機が車輪ではね、母親が即死するゴードン事件が発生。これを機に射爆撃場の返還運動が一気に燃え上がり、73年3月に返還された。
 戦後29年目の返還。関根さんは当時の写真を見ながら振り返る。「住民にとっては何のメリットもない施設だったということだ」

8月16日朝刊

【関連記事】
自費出版:日立製作所多賀工場の元社員ら、古希を記念して /茨城
東日本大震災:県内全市町村の放射線量観測結果 /茨城
ニュースBOX:東海第2原発など「保安規定違反なし」 /茨城
東海第2原発:廃炉を求める 市民団体が署名活動 /茨城
火災・救急概要:上半期救急出動3992件、震災影響で大幅増−−日立市 /茨城


Posted at 00:52 in Economy | WriteBacks (0) | Edit
WriteBacks
TrackBack ping me at
Post a comment

writeback message: Ready to post a comment.